本日ここに○○県議会議員・故○○○○先生の○○党県連葬にあたり、謹んでご霊前にお別れの言葉を申し上げます。

先生を病床にお見舞い致しましたのは、桜花爛漫の4月初旬でございました。
いつもと変わらぬお姿に安堵し、新緑の頃には公務に復帰され、背筋を伸ばした元気なお姿を見せて下さるものと堅く信じておりました。
それが今、大粒の涙の如き梅雨空の下で、永遠のお別れとなってしまいました。政治家としていよいよ円熟の時を迎えようという65才での早逝は、いかに天命とは申せ、あまりに悲しく、はかなく、残念でなりません。こうして遺影を前にしてなお、私は心の決別が出来ないままでおります。

顧みますと、先生との出会いは30余年の昔。共に社会の正しからざるを憂い、地域の発展を願う同志として意気投合したのがご縁でありました。40歳で初当選を果たされた夜、満身の疲れをものともせず、空が白むまで県政への夢と情熱を語られたお姿は、今も目の前に彷彿としております。

以来6期24年、政治家としてあらん限りの熱意と知恵を注ぎ、山積する難題に敢然と立ち向かい、県政の刷新と県民の生活向上のために一身を捧げて来られました。いつも笑みを絶やさぬ穏和な人柄でありながら、政治の世界においてはけっして安易に妥協することなく、ひたすら己が信念を貫き通されたのです。けれども、それは時に孤独で、時に辛苦を伴う茨の道でもあったでしょう。後援会を預る身として、先生のご苦労を間近に見ながら、どれほどお力になることが出来たのかと、深い悲しみの中で忸怩たる想いを噛み締めるばかりです。

先生の輝かしい功績は枚挙にいとまがありませんが、とりわけ私は「県立武道会館」の建設における心血を注いだ取り組みこそ、その真骨頂と存じております。
幼い頃より柔道にいそしみ、前途有望な黒帯として将来を嘱望された先生は、もし政治の道を歩まなければ、柔道家として名をなしておられたことでしょう。
しかしながら、柔道でつちかった心と技は、政治の世界においても余すところなく発揮されました。「柔よく剛を制す」の格言通り、いかなる強敵にもひるむことなく勇敢に立ち向かい、技を駆使して勝利を収めたのです。しかも、勝っても驕らず、敗者をいたわり、常に正々堂々と柔道の精神を貫かれました。
主義主張は異なっても、誰もが等しく先生のご逝去を惜しむのは、まさしく古武士のような高潔な人格と礼節の賜にほかなりません。

「健全な青少年の育成こそ社会の根本なり」を不動の信念として、先生は常に将来を担う若者たちに目を向けておられました。それは厳しくも愛情に満ちた、まさに慈父の眼差しでありました。「武道を通して心身共に健やかな子供たちを育てたい」との一念で、県立武道会館の建設のために、どれほど情熱を傾け、真摯に訴え、東奔西走されたことでしょうか。それは今も、県民の語りぐさになっているほどです。

努力の甲斐あってようやく完成した県立武道会館は、柔道・剣道・空手など武道の殿堂として、今や数多くの権威ある全国大会を招致・開催出来るまでに成長致しました。また身近な道場としても広く県民に親しまれ、日夜、胴着や竹刀を携えた子供たちの元気な声が響き渡っております。先生の想いが大輪の花を咲かせ、心も身体も立派に成長した若者たちが、私たちの未来をたくましく担ってくれることでありましょう。

今日、未曾有の不況の中で、県政の課題は一気に深刻さを増しております。先生の手腕に期待するところきわめて大であったがゆえに、痛惜の情こらえがたく、ただただ嗚咽するばかりです。けれども、いたずらに悲嘆に暮れ、歩みを止めることを、先生はけっして望まれますまい。
私たちは涙を振り払い、一丸となって先生の崇高な遺志を受け継ぎ、○○県のさらなる発展のために全力を尽くしてまいることを、ここにお誓い申し上げます。

○○○○先生、どうか安らかにお眠り下さい。ご霊前に在りし日の笑顔を偲びつつ、心からの感謝と哀悼の意を捧げましてお別れのご挨拶と致します。


県議会議員の後援会長の弔辞。公的な功績と私的なエピソードを織り交ぜながら、いささかでも故人(直接の面識はありませんが)の想いが伝わるよう苦心しました。とはいえ、私自身は一度も葬儀の本番で弔辞を読んだことがありません。弔辞を読ませていただくほど親しい立場の方だったら、きっと涙で何も言えなくなってしまいそうです。